出典種別 | 兵士の回想録等
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現在の地域情報 | マルク州 アンボン |
資料にある地域情報 | マルク州 アンボン島 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からだされていた。それまでも毎月1回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。・・・このアンボン島と周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰安婦志望者だけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を高めて、治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が中心になるだろうと思われた。そして慰安婦を集める作業はどこがやるか、各隊はそれにどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。問題は現地人を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つの謀議でもあった。・・・副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。・・・そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。・・・結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった。・・・それからまもなく、各地区に女は配分され、慰安所が再び公然と開設された。女の数が少なく日本軍の数が多いために、自由に遊びにいくことはできなかった。当然交通整理の必要があった。戦時の食糧や衣類の配給に切符制がとられたと同じように切符割当制が行なわれた。・・・慰安所は、元オランダ士官の宿舎で、大空襲に破壊されずに残っていた3軒が使用されていた。 |
証言者 | 禾晴道 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 海軍特別警察隊――アンボン等BC級戦犯の手記 |
著者、公文書発信者など | 禾晴道 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1975.2.25 |
発行所 | 太平出版社 |
ページ | 110-118 |
出典備考 | 注:「Ⅸ 慰安婦狩り」からの引用。証言者がアンボン島に着任した時、慰安所があったが、戦況の悪化とともに解散させられた。しかしその後、再び慰安所を開設する。ここでは慰安所を再度開設するまでの証言である。戦後に木村司政官は「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!!と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出してもゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」と禾晴道に語っている。 |
備考 |
アンボン島はニューギニア島とスラウェシ島の間にある。
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