記載内容 | 逸早くラングーンに乗りこんできた白木屋では、大きなクラブを占領して食堂を開業していた。広い芝生の庭のあるクラブだった。・・・ある日「日本から女が来た」という知らせがあった。連絡員が早速波止場へかけつけると、この朝到着した貨物船で、朝鮮の女が4,50名上陸して宿舎に入っていた。まだ開業していないが、新聞記者たちんは特別にサービスするから、「今夜来て貰いたい」という話だった。・・・私の相手になったのは23,4の女だった。日本語はうまかった。公学校で先生をしていたといった。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」ときくと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行って見たかったので、応募しました。仁川沖に泊っていた舟に乗りこんだところ、東京へ行かずに南へ南へとやってきて、着いたところがシンガポールでした。そこで、半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。・・・ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。16,7の娘が8名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか」・・・若い記者たちも同情した。結局この少女たちは憲兵隊に逃げこんで救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って、8名の少女は将校クラブに勤務することになった。その後この少女たちはどうなったろうか。・・・その後ビルマには陸軍専用の料亭がたくさんできた。なかでも久留米からやってきたという粋香園は、芸妓、半玉、女中、コックはいうまでもなく、髪結いさんから仕立屋、洗張り屋、婦人科医まで総勢百五十人、タタミから座蒲団、屏風、会席膳一式まで海路はるばる軍用船で運んできたといわれるが、これはずっと後の話、私たちのいた頃は、ハダカローソクか縁側の板の上でガマンしなければならなかった。 |