記載内容 | いよいよ山を降りてマンダレー幹線道路を突破して行くことになったのですが、長い間の栄養失調でみんなフラフラです。病人もいますし、道なき道を巡っていく途中で、ちょっとしたことで骨折したり、それにまた後ろの方からは、追うように敵の砲弾が飛んでくるようになりました。やっと集結が終わったので、(ペグー山系を)脱出するために、移動を開始したのが昭和20年7月7日です。ここで思わぬ命令が出たのです。それは逃げ遅れた(現地日本軍の)慰安要員らの保護でした。そのころ、ビルマ方面軍司令部が、いち早くラングーンを捨ててモールメンに転出してしまい、慰安寮とか料理店の従業員の女の人や、商社の人たちが置いていかれてしまったのです。そういう人たちも山の中に隠れていたので、その人たちの保護命令で、私の部隊に割り当てられたのは、28名の女の人たちでした。現地では、街で飲み屋をやっている人が、女の人を給仕に出しながら陰の営業(売春)をしている人たちです。・・・中国人や朝鮮人もいましたが、女の人たちは全部頭を剃って兵隊の軍服を着せられ、いっしょに山を下りることになりました。・・・ところで、私たちの部隊に預けられた(慰安要員の)女性たちですが、川に流されたり、湿地帯で落伍してそのまま行方不明になったりして、最後の集結地に到着したのはたった2人だけでした。1人は日本人のおばさんで、もう1人は中国人でレイコ(現地名)という若い女の子でした。広東生まれだと聞いていました。 |