出典種別 | 兵士の回想録等
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現在の地域情報 | パゴー管区 ピイ県 パダウン郡区 |
資料にある地域情報 | ボンガ村 |
慰安所があった時期 | 1944年 |
記載内容 | その一つは私が第4中隊・第3小隊長としてポンガ村の中に宿舎を構えていたとき、私の宿舎の直ぐ近くに住んでいたウ・ボコンと言う村の有力者から聞いた話であるが、彼の語った処によれば、昭和17年の初め、日本軍がビルマに進駐する際、彼等は日本の宣伝、「アジア民族を解放する大日本帝国の神兵来たる」と言う言葉を度々聞かされ、そして又、ポスターでも見たそうであった。・・・そして我が軍が敗走する英印軍を急追して、アキャブ作戦のためアラカンを越ゆるべく、此のポンガ村を数日に亙って連日連夜通過した時、彼は彼の妻や子と共に、他の部隊の者と同様に固く我が家の門を閉ざして戸の隙間より覗見していたそうであったが、その結果日本の神兵と言う者が見るかげもなく汚れ果て、髭はぼうぼうと伸び、帽子を被っている者もあれば、鉢巻しかしていない者もあり、又着ている衣服は破れが目立ち、銃をも逆さまに担っている者もあったと言う状況で、宣伝によって彼等が考えていた日本の兵隊とは全然違った、とにかく汚くて行儀の悪い兵隊であったそうである。・・・表面的に於ては厳禁されていたビルマ人との私的交渉も公然の秘密として堂々と行われていた。第4中隊の宿営地たるポンガ村はその極端であった。中隊長は自ら率先して宣撫第一主義を唱えて自らビルマ語を語り、部落の誰彼となく交際していた。・・・それは前述の彼等の私的交渉を表面に於ては絶対に禁止し乍ら、裏面に於ては余りにも堂々と行われていたと言う嫌忌すべき事実に対する私の反発心の表れでもあった。私のこうした小さな反発は部隊の大勢を如何することは出来なかった。某中隊長の如き、某軍医の如き、その宿舎にビルマ婦人・混血娘等を引き入れていた程であった。とかく良い行いは真似するものの少ないのに反して、此んなことは広がり易いものである。部隊の下士官・兵隊にして一時的の慰安のためとは言え、否、それだからこそ却って人道的に許されないのであるが、ビルマ婦女子をして将来を泣かしめた者が多数あった。 |
証言者 | 阿部幸助 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | 独立自動車第55大隊 |
資料タイトル | ビルマ戦記-自動車大隊小隊長の陣中日誌- |
著者、公文書発信者など | 阿部幸助 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995.12.8 |
発行所 | 星雲社 |
ページ | 88-90 |
出典備考 | 注:有力者は「汚くて行儀の悪い兵隊」を見た結果、「一挙に親愛感へと移って行った」というのだ。こんな中、私的交渉が厳禁されながら、パドン地区では中隊長や軍医が自身の慰安のため女性を囲っていた。 |
備考 |
アジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図に「パダウン」がある。ピイ(プローム)のイラワジ河を挟んだほぼ対岸である。現在の地図の同所はPadaungである。なお、この読みは「パダウン」とした。本資料のパドン地区とはパダウンのこと。『ビルマの地獄戦』の31pの地図にパドンの西隣にボンガがある。パドンはパダウンのこと。現在の地図のパダウンの西隣にボンガ見えず。ボンガ村は不明。
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