出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | エーヤワディ管区 ハンザダ県 ネイバン郡区 |
資料にある地域情報 | ネーパン村 |
慰安所があった時期 | 未記載 |
記載内容 | 全部の宿舎は、一晩ではできなかった。翌日と翌々日あたりは、天幕を張って寝たようなきがするが、ニッパハウスの竣工には時間はかからない。たちまち、ネーパン村の竹藪の中に、勇(第2師団)司令部ができ上がった。建設班は、続いて慰安所の建設に取りかかった。数日のうちに慰安婦たちが到着するというのであった。道路が三方に分かれている場所があって、そこを私たちは、三叉路と呼んでいた。その道を北上すればヘンザダに到る。慰安所は、三叉路から2,300メートル南に下った右手の竹藪の中に作られた。司令部は、三叉路から西に入った左手の竹藪の中にあった。・・・ 三叉路から南へ少し行った右手の竹藪の中にある慰安所に、何回か私も行った。しかし私は、慰安婦を抱かなかった。つきあいだから、慰安所の庭までは行く。庭を取り囲むように女たちのニッパハウスが建っている。2部屋で1棟の造りであったように思うが、はっきりとは憶えていない。慰安婦は朝鮮人で10人ぐらいいたような気がする。・・・戦地では、兵隊が慰安所で行列を作って順番を待っているという話を聞かされたことがあるが、ネーパン村では、そういうことはなかった。兵隊たちは、中庭でブラブラしながら、目当ての妓のドアに注意の視線を注いでいるのであった。・・・慰安婦の料金は、兵隊が2円であったか3円であったか。下士官は兵隊よりも2円ぐらい高く、将校はさらに下士官よりも3円ぐらい高いのである。 |
証言者 | 古山高麗雄 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 兵隊蟻が歩いた |
著者、公文書発信者など | 古山高麗雄 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1977.5.30 |
発行所 | 文芸春秋 |
ページ | 196、198、200 |
出典備考 | 注:証言者はビルマに従軍した。戦後、ビルマを再訪した記録が本資料である。 |
備考 | アジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図のヘンザダの南西に「ネイバン」がある。現在の地図の同所はネイバンNeik Banである。 |