出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | シャン州 タウンジー県 カロー郡区 |
資料にある地域情報 | カロウ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 私は祭兵団の患者をカロウに送るとそこで一泊した。兵站宿舎は英国の宿舎で便所も水洗式である。電燈の設備はあるが点かなかった。町には加朗とか香郎とかの名をつけた軍利用の飲食店があり、人目を避けた所に慰安所兼用の兵(つわもの)食堂があった。女は全部現地人で、印緬混血女、ビルマ女、シャン女と人種色豊かである。彼女たちが花子だのミドリなどの日本名で呼び合い「月がでたでた」と炭坑節を手拍子をとりながらうたいだす。 これは当地カロウに航空隊司令部がある関係上、彼らおかかえの慰安所である。飛行場大隊が続々つめかけて一時慰安所が雨後の筍の様に設立された。日本婦のみの所あり、朝鮮女ありでさすがは航空隊である。しかし、「一夜妻」を抱いて翌日は印度に飛び、チッタゴン・インパールの空に不帰の客となる紅顔の青年将校の多いのは涙を催すものがある。年齢の22,3で私より若く、大尉の襟章をつけ、夜は大てい酒と女である。私はここの航空隊々付軍医で東北大出身の芳賀正男軍医中尉と偶然知り合い、惨烈な航空消耗戦の実相を知った。女のことで軍刀を抜き柱に切りつけて制止された男も、数日後には自爆を遂げていた。自殺のことではない。敵地で被弾して燃え上り敵陣に突っ込むことである。落下傘をつけずに飛ぶのだから残酷である。一緒に酒を飲む機会があったが、弟の様な彼らは非常に単純、無邪気である。女も最優先で与えられる。芳賀軍医の仕事は彼女らに花柳病を発生させぬことである。 |
証言者 | 興野義一 |
証言者属性 | 日本軍兵士・軍医 |
部隊名 | 航空隊司令部 |
資料タイトル | 一軍医の見たビルマ敗退戦 |
著者、公文書発信者など | 興野義一 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1981.10.25 |
発行所 | 旺史社 |
ページ | 48-49 |
出典備考 | 著者略歴に「昭和18年10月東京軍医学校幹候隊卒、ビルマ派遣」とある。証言のうち後半は「12 飛行場慰安所」の章である。カローには慰安所兼用のつわもの食堂(兵食堂)と航空隊の慰安所(名称不明)があった。 |
備考 | 著者略歴に「昭和18年10月東京軍医学校幹候隊卒、ビルマ派遣」とある。 |