記載内容 | 東国民学校高等科1年生であった金城重信は、父政信がエーラ山の製材所の資材、労務関係の責任者だったことから、父政信が帰宅するときに乗って帰る時の馬を届けるために下校後は馬に乗ってエーラ山の製材所まで行くことが日課になっていた。ある日、製材所に勤務している父の友人に頼まれたサツマイモを馬の鞍に下げ、トーヤマに差しかかった時、そこの山小屋に監禁状態にされていた慰安婦(朝鮮出身の若い女性約20人)の3人がサツマイモを見つけて駆け寄ってきて「サツマイモクダサイ、オネガイオネガイ」と両手を差し伸べて懇願したので、それぞれに1個ずつあげた。その場面を見ていた仲間の慰安婦たちも「サツマイモ クダサイ、オネガイオネガイ」と駆けつけて来たので、びっくりしてその場から大急ぎで立ち去った。・・・水勤隊員等は日本兵よりも食事の量が減らされて支給され、毎日ひもじい思いをしながら厳しい労働を強いられていた。このような状況を毎日見ている川田の人達は水勤隊員等を家の近くで見かけると招きいれ、サツマイモをお膳に盛って食べさせていた。・・・しかし、民家に入って食事をしているのを日本兵に目撃されると罰されていた。また、川田には一時期朝鮮人の若い女性がいたがその女性達を「チョセンピー」と呼んでいた。 |