記載内容 | かつて慰安所に使われていた家は、部落はずれに2軒並んで建っているヨナミグヮーとアガリヤーだという。ヨナミグヮーもアガリヤーも屋号である。・・・その頃、キクエさんは20歳、キクエさんより先に炊事係になっていた人は、おばさんといっても25,6歳、2人の子持ちだった。1日の仕事は、朝10時に軍の主計部へ行って、その日必要な品々を伝票に記入することから始まった。伝票と引換えに、その日の食料が支給されたから、それを受取り、品目、数量に間違いがないかを確認して慰安所に運んだ。慰安所に着くと、すぐに昼食の仕度にとりかかる。風呂も午前中に沸かしてしまう。女たちは客が来る前に入浴をすませていた。・・・7人のうち、一番若かったのはマチコと呼ばれていたコマチ、18歳だった。コハルとミハルはともに20歳、アケミが23歳、ユキコとも呼ばれていたコユキとシノブが25歳、一番年長のコハナは30歳ぐらいだったろうか。・・・帳場を受持っていたのは、スズキという30歳過ぎの東京出身の男だった。すでに兵役をすませており、軍隊時代には軍曹までいったと話していた。・・・阿嘉島の慰安所も、渡嘉敷島や座間味島の慰安所と同様、前に述べた山第3475部隊の内務規定にほぼ近い形で営業されていた。7人の女たちが阿嘉島にいたのは、3か月余にすぎない。 |