記載内容 | 沖縄県那覇市の国際通り裏で小さなバーをひらいているM子さん(50)は、かつて日本軍の慰安婦をつとめたことがある。・・・「辻町の出と聞いて、兄さん、来なさったね。ウチは、辻町におったことは隠さんけど、あのね、慰安所づとめをさせられたことは、いいたくないんよ」・・・朝鮮娘と呼ばれる慰安婦たちが、どんな状態におかれているか、M子さんの耳にも入っていた。何人きているのかはわからなかったけれども、朝鮮から連れてこられた娘たちが、20人ずつくらい一緒に行動して、部隊から部隊をまわっている。ごく簡単な囲いの中で、行列をつくって待つ兵隊をつぎつぎ迎えて、くたくたになって動けないのを、つぎの部隊へ向かうためにトラックに積み込まれていた……というような話を聞いた。・・・「朝鮮娘は1日に何十人も相手できるのに、辻町の女はたった1人か2人でまいってしまう。だらしない、それでも商売女か、とかなんとか友軍のその人はいうたから、辻町の人が苦労しとるのがわかったさ。それでね、ますます行く気がしなくなったわけ」・・・しかし、空襲は1日きりで終わり、日本軍はさらに必死の総動員体制をとる。辻町はみごとに焼けてしまい、M子さんはどこかせいせいした気分を味わうが、意外にも日本軍は焼跡にさっそく慰安所を建てた。「こんどは軍が直接やることでしょ、どうしようもないさ。ほんとに、どうしようもなかったさ……」M子さんはそこで、ぴたりと口を閉ざした。慰安所でのつとめがいかに屈辱的であったか、むしろ、その沈黙がものがたる。 |