出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 那覇市 字真地 |
資料にある地域情報 | 宇山陣地(識名園) |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 通信班の生活にも慣れてきたころ、米軍上陸地点の判断に迷った軍司令部の命令で、中、南部地区へ予備陣地が構築されることになり、中隊からも半数の人員が作業に駆り出されて行った。そしてある日、完成間近の識名園宇山陣地に電話架設の命令が出た。この作業には私も駆り出され、南川のお伴をして中隊を出発した。架設の経験のない私に替わって南川が電線を背負い、木の枝や焼け跡の民家の軒に黄色い電線を器用に引っかけながら、昼前ごろには宇山部落へ到着した。・・・ 陣地に着いたとき、私たちを見て通信班の浜田が走り寄って来た。彼は宇山分遣隊の指揮小隊長になった若月少尉の当番兵として来ていたのである。・・・仕事といえば小隊長の身の廻りの世話と、週1回ふもとの慰安所へ「隊長のコレを迎えに行くだけじゃ」と小指を立てて見せた。彼の話によると、慰安所には20人ぐらいの女がいるという。しかしいずれも将校専門で、兵隊は家の中にはいることも許されなかった。彼は若月少尉となじみの女のからだがあくまで、慰安所の外に立って待っていなければならない。・・・彼はある夜、いつものように女を迎えに行った。「待たせてすまなかったわね」と女はいい、一緒に歩きはじめた。暗い坂道をころばぬように女は彼の手をしっかりと握っていた。竹藪の近くまで来たとき、女はふと立ち止まった。何ごとかと思うと、女は彼の顔をうかがいながら囁くようにいった。「あんたはいつも使いばかりでかわいそうね。あんたもしたいでしょう。させてあげますから、ここでしていきなさい」いうが早いか、女は彼の手を引いて草の上に腰を下ろした。 |
証言者 | 通信班の浜田当番兵 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | 宇山分遣隊 |
資料タイトル | 逃げる兵 |
著者、公文書発信者など | 渡辺憲央 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1979.6.1 |
発行所 | マルジュ社 |
ページ | 56-58 |
出典備考 | 注:本証言から、宇山陣地は小高い山、識名園にあることがわかる。宇山陣地に慰安所はなかったが、そのかわり小隊長のために、当番兵浜田がふもとの慰安所に週に1回、慰安婦を迎えに行くことになっていた。ふもとの慰安所には20人ほどの慰安婦がいたが、小隊長にはなじみがいた。ここでは識名園の宇山陣地への出張慰安所としてとった。識名園は那覇市字真地にある。ちなみにふもとというのは上間と思われる。上間についてはa-4409、a-4410を参照のこと。 |
備考 | アジア歴史資料センター:C11110029100に識名園の説明がある。「島尻郡真和志村字識名(与那原線、一日橋より約7町)に在り、尚家の別荘にして」とある。識名園の南西に隣接して上間がある。 |