記載内容 | 敗戦の1年前、アメリカ軍の潜水艦攻撃で、高雄に寄港する船団が少なくなった。お客がガタ落ちして困っていたところ、中国大陸の前線基地に慰問に行けと、台湾軍司令部から命令された。Sさんは、慰安婦たち20人を連れて膨湖島に行き、そこから船で中国大陸に渡った。慰問団は、約2百人にふくれ上がっていた。行き先を教えられないまま、トラックに乗せられて、1週間目に前線に着いた。野戦病院に行くと、慰安婦たちは入院中の負傷兵に花束を贈った。それで帰れると思っていたところ、前線へ慰問に行けという命令が出た。さらにトラックで2日行くと、ある田舎で降ろされた。バラック建ての長屋があって、その個室に慰安婦たちは入れられた。日本人と朝鮮人が半々、Sさんは受付で、やってくる兵隊の伝票を受け取った。大砲の音が1日中響いて、近くに砲弾が落ちることもあった。それでも兵隊たちは、部屋の前に並んで順番を待った。慰安婦たちは、慰問団のつもりできているので、まさか危険な戦場で兵隊の相手をさせられるとは思いもしなかった。不平が出て台湾に帰してくれと抗議して、1ヵ月後に帰ることになった。8月15日、解放になると、高雄港から駆逐艦に乗せられて、釜山港へ帰り着いた。Sさんは、トランクいっぱい紙幣を持って帰ったが、釜山の桟橋で1人最高千円だといわれると、残りを全部慰安婦たちに渡してしまった。 |