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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報地名特定不可能
資料にある地域情報シンガポールのある離れ島
慰安所があった時期
記載内容7歳から日本人の子守奉公をさせられて、虐げられさげすまれ、涙に暮れながら過ごした私は、やがて中国天津の日本軍部隊の「慰安所」で下働きをさせられ、16歳のときからそこで「従軍慰安婦」生活を強いられた。ある日、将校が「これからおまえの名前は由美子だ。日本軍のために一生懸命奉仕しろ」と言って、私を「慰安所」の奥部屋へ押し込んだ。私はなんのことだかわからなかったが、夜になるとひとりの男が入ってきて、襲いかかるのだった。・・・毎日、午前は8時から正午まで、午後は2時から6時まで、夜は8時から12時すぎまで「奉仕」を強いられた。ある日私は熱病にかかった。その日は日曜日だったので休む暇がなく、多くの男を相手にさせられたあと、つぎの男に体の具合が悪いからかんべんしてほしいと頼んだ。するとその男は「いやなら首をきってやる」と言って軍刀を私の首に突きつけた。そのとたん血が流れて肩を濡らした。かれはそんな私を蹴ったりなぐったりしたあと情欲を満たした。今も残っている首の醜い傷跡はそのときのものである。・・・中国で「慰安婦」生活を強いられていた私は、19歳のときシンガポールのある離れ島へ連れて行かれた。そこの「慰安所」には「慰安婦」が30人ばかりいた。日本帝国主義者は食糧、被服などの輸送がままにならないと言って、破れた軍服1着をくれた。こぶしほどの安南米の握り飯も欠食することがたびたびあった。ひもじくて草をかじり、バッタやカエル、小魚などを捕って食べたりした。ろくに食べられず、毎日10時間以上もおぞましい屈辱的行為を強いられたあげく、栄養失調にかかり、病死する女性が増えた。
証言者鄭文福
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ38-39
出典備考
備考
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