証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報地名特定不可能
資料にある地域情報シンガポール
慰安所があった時期
記載内容16歳になる1932年、さらに売られて日本大阪の天王寺病院に勤めた。2年後のある晩、院長は私を犯し、それが知られるのを恐れて、日本軍東京第12師団の「従軍慰安婦」に回した。こうして私は恥ずべき性奴隷の生活を強いられることになった。最初連れて行かれたのは中国の長春であった。部隊の駐屯地にバラック建ての「慰安所」があったが、部屋は1畳ぐらいの広さであった。そこには100余人の「慰安婦」がいたが、みな朝鮮女性であった。私は石川すじえという日本名をつけられ12号という部屋の番号で呼ばれた。「従軍慰安婦」たちは朝早く「慰安所」の庭に引き出され、「宮城遥拝」を強いられた。食事は1握りの麦飯とたくあん1かけらだけであった。朝6 時から夜中の2 時まで1日に30~40 人を相手にさせられた。日本兵は狼の群れのように襲いかかったが、ときには2~3人が同時に現れ、血みどろの喧嘩騒ぎまで起こした。なかには年配の第12師団の大隊長(名前は秋沢)や副師団長までやってきて獣欲をみたした。苦しみと恥ずかしさに耐えきれず、首をくくろうとして発覚したこともある。私が首に軍刀を突きつけて脅かす日本人将校に、「私は朝鮮女性だ。どうしてお前らのために戦場を引きずり回されなければならないのか」と反抗すると、かれは朝鮮の女も人間かと侮辱した。その後さらに多くの日本兵が私の部屋に押し寄せた。長春で3年間すごしたあと、ハルビン、上海、南京、貴州、広東、シンガポールと引きずり回された。「慰安婦」にたいする日本兵の蛮行は口では到底言いあらわせないほどひどいものだった。上海の「慰安所」では伝染病がはやって多くの朝鮮女性が命を失った。日本兵は患者を焼き殺し、死体はかます1枚かぶせず川や山に投げ捨てた。その後私は日本軍第6師団の「従軍慰安婦」にならされたが、この第6師団は「突撃隊」を自称する部隊で、みな横暴をきわめ、「慰安所」にも抜き身の軍刀を振り回しながらやってきたものだった。
証言者金大日
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ3-4
出典備考
備考 シンガポールのどこの慰安所であったかは不明。
テキストのコピーはできません。