記載内容 | 私が16歳になった年、見知らぬ男がお金を稼げるところを紹介してやると言って、私の村の慶淑など同じ年頃の娘たち4~5人を連れ出した。私たちは汽車に乗せられ、3日目に中国のチチハル駅で降ろされた。そこで私たち5人は別れ、それぞれ別の「慰安所」に送られて性奉仕を強要された。「慰安所」の主人は高橋という日本人だった。「慰安所」では日本語だけを使わされ、日本の着物を着なければならなかった。そうしないとなぐられた。私は親がつけてくれた竜花という名前まで奪われ、北原良花という日本名で呼ばれた。日本軍は朝鮮人を人間扱いせず、娘たちを品物のように勝手に選び取った。10代の私はなにも知らないで日本軍のテントの中に引っ張り込まれた。日本人はいきなり私にとびかかった。・・・私は大声で泣きながら抵抗したがとうとうかれのいけにえになってしまった。下腹部が血だらけになって身動きできなかった。このときから私は日本軍の性奴隷の境遇につき落とされた。このことは私の生涯にいつまでもいやすことのできない傷を残している。日本軍の将兵は日に20~30人ずつ、日曜日には40人もおしかけてきて、けもののように暴行をはたらいた。・・・いいなりにならないとかれらは私を鞭で叩いた。それで体中に蛇がはったようなあざができた。ふくらはぎの打ち傷は化膿して上に広がっていった。50年以上の歳月が過ぎた今でもその傷跡は残っている。・・・私は死のうと思い、消毒液のクレゾールを飲んだ。かれらは私の口にゴムホースを入れて薬を流し込み、胃を洗浄した。こんなことがあってから、かれらは腹いせにいっそう私を虐待した。私は10年間地獄のような「慰安所」で過ごし、計り知れないほどの血涙を流した。それだけではない。けもののような日本軍はけがらわしい性欲を満たすために部隊が移動するときは「慰安婦」たちも引きつれて歩き、テントを張って「移動奉仕」を強要した。 |