記載内容 | 14歳から西平壌下駄工場で働いた私は、17歳のときの1941年9月のある日、工場の日本人監督から、1か月稼いで3か月食べられるいい仕事があるから一緒に行こうと誘われた。日頃なんとか家族の苦しい生活に役立てばと思っていた私は、お金になるところならどんな工場でも働くつもりで応じた。平壌駅には私と同じような娘が7人いた。ところが汽車に乗ると、日本警官に見張られ便所へ行くときも付きまとわれた。だまされたと気付いたときはあとの祭りで逃げることもできなかった。数日後に着いたところは中国のチチハルで、そこには朝鮮女性15人がいた。私たちまで合わせると22人になった。「慰安所」は共同便所のような形の建物だった。ようやく2人が横になれるくらいの狭さで、畳を敷いた部屋には番号と娘の名前がはり出されていた。「慰安所」の主は「おまえは5号室だ。今日からおまえの名前は照千代だ。朝鮮語をしゃべると殺してしまうぞ」と言った。・・・到着した翌日から皇軍の兵士たちが列をつくって襲いかかった。・・・昼間は兵士、夜は将校の相手をさせられたが、毎日15~20人、日曜日などは昼食を取る暇もなく30余人も押し寄せて、獣欲をみたすのだった。・・・食事はジャガイモを混ぜた押し麦の飯一握りと塩漬けのキャベツで、4年間ずっと同じ状態だった。メンスのときにも休ませてくれなかった。死ぬこともままならぬ汚辱の日を送っていた私は、1945年6月のある夜中、日本軍将校にお手洗いに行って来ると言って、脱出した。当時階級の高い将校は気に入る娘を宿舎に連れて行ってひと晩情欲をみたしていた。 |