記載内容 | ある日、日本人(宮本)が来て、「ハルビンへ行けばお金が稼げる」と言うので、そこをやめ、かれに連れられてハルビンへ行った。5人の朝鮮女性が一緒だった。ハルビン行きの汽車の中では兵隊に見張られた。ハルビン駅で降りてトラックに乗り、1日中走って夕方着いたところはある谷間で、意外にも日本軍の兵営があった。そこは小興安嶺の辺りだとのことだった。私が入れられた「慰安所」には12人がいた。近くにそんな「慰安所」が3~4か所あったと覚えている。私は家に帰らせてくれと大騒ぎしたが、日本兵に軍刀を突きつけられ首を切るとおどかされた。ある日、体の具合が悪くて拒むと、日本兵が軍刀でおどかし私の腿を刺した。今もその痕が残っている。風呂以外のときは部屋から出られなかった。便所は部屋の片隅にあって、非常に不快だった。1日平均15~20人、昼は下士官、夜は将校が来た。食事は安南米か粟飯100gグラムぐらいにたくあんで、部屋へ運んで来た。1部屋に朝鮮娘が1人ずつ入れられ、話し合うことも許されず朝鮮語も使えなかった。歩哨がつきっきりで逃げることもできなかった。月に1回休みをくれた。病気だと訴えても、管理責任者は「我慢していれば治る」と言ってまるでとりあってはくれなかった。1944年3月ごろ、歩哨が居眠りをしている隙に3人の娘と一緒に逃げ出した。40分ぐらい走ったとき、後の方からわめき声が聞こえた。日本兵が追いかけてきたのである。そのとき1人の娘とはぐれたが、その後どうなったかわからない。20日間あまり山をさまよい、貰い食いをしながらある駅にたどりつき、汽車で丹東に着いた。 |