記載内容 | 16歳の年のある日、村の区長が「一生下女奉公なんかするよりはいい仕事口を斡旋してやるから行ってみないか」と言った。私は苦労しても故郷を離れたくないと断ったが、翌日、高田という日本人が来て私をむりやり駅に連れ出した。そこには、同じ村の14歳の李永子と13歳のイプニが他の日本人に連行されて来ていた。日本人たちは、連行してきた私たち3人を窓のない有蓋貨車に押し込んで外から錠をおろした。・・・私たちは日本兵の監視下にハルビン丸に乗せられ、木蘭県に来て、そこから馬車で焼く8kmほど行った。そこは民家が1軒もなくトクサの生い茂る日本軍の駐屯地だった。・・・日本兵は私たちが言うことを聞かないと言って平手打ちを食わせたり、蹴ったりした。そして、名前も本名ではなく日本名で呼んだ。それで私の名前は松子、永子は永子、イプニは愛子と呼ばれた。日本軍はその後、兵士の士気を奮いたたせるためだと言って、「性奉仕」をするよう私たちに要求した。・・・そのときから、私たちは「皇軍」を相手におぞましい性奴隷生活を強いられた。私たちはいつも主に将校を相手にし、日曜日には朝8時から夜12時まで兵士のいるところに設けられた豚小屋のような、野外仮設「慰安所」で30~40人の兵士を相手に言葉に尽せぬ「性奉仕」を強いられた。・・・そんなある日、疲れきった私は入ってきた田中に、もうかんべんしてくれと言った。するとかれは「皇軍をなめるな」と言って、私の頬に平手打ちを食わせた。・・・ある日、ある男は無愛想だと悪口を浴びせ、タバコの火を私の腹に押しつけた。・・・日本軍は日曜ごとに「移動奉仕」を強要した。「移動奉仕」の日は「奉仕」の場所も時間も人数も決まっていなかった。「100人でも200人でも入ってくるだけ奉仕しろ」というのが日本軍の要求だったし、広い野原がそのまま「奉仕」の場所だった。・・・私は18歳の年の3月、私を連行してきた高田をピクニックに誘い出した。私はかれと一緒に馬車に乗り、軍隊の駐屯地を抜け出して松花江の渡し場に行き、かれが持ってきた強い酒を飲ませた。そして酔いつぶれたかれを泥沼に放り込んでハルビン丸に乗り、ハルビンに逃れた。 |