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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報黒龍江省 牡丹江市
資料にある地域情報牡丹江から4km離れた日本軍兵営
慰安所があった時期1940年10月
記載内容私が18の1940年10月のことである。村の地主(異名「トルレ」)がひとりの日本人(名前はわからないが、黒服のいがぐり頭であった)と一緒に家に来て、私の母に稼ぎのいいところがあるから娘をそこへやってはどうかと誘った。母が断ると日本人は母の顔を蹴り、私を強引にトラックに乗せて平壌駅へ連れて行った。母は日本人に蹴られて前歯2本を折った。私は3人の朝鮮娘たちと一緒に軍馬を運ぶ薄暗い有蓋貨車に乗せられた。・・・3~4日かかって汽車は中国の牡丹江に着いた。私たちはそこからまた4km余り離れた日本軍兵営に連れて行かれた。私は平壌駅から一緒に来た朝鮮女性3人(2人は南浦から一緒に来た娘で明玉17歳、鳳女17歳、1人は平壌から来た学実16歳)と一緒に2階建ての建物の中に入れられた。1階には4つの部屋があって、それぞれ1部屋に1人ずつ入れられた。部屋に入ると外から錠がおろされた。部屋の大きさは幅2~2.5m、長さ3mほどで、床は板敷であった。窓からのぞいて見ると、向いの家にも朝鮮女性が大勢出入りしていた。私たちが着いたのは夕暮れだったが、その晩日本刀を下げ黄色い肩章をつけた日本軍将校が部屋に入ってきた。彼は「これからは日本の将校に無条件降伏しろ。それが天皇陛下に忠誠を尽くすことだ。朝鮮の女はわれわれの言うことを聞かないと死ぬほかない」と言って私にとびかかった。・・・私の隣の部屋には明玉が、そのまた隣には鳳女がいたが、彼女たちも同じような目にあった。・・・私たち4人の部屋には将校だけやってきた。1晩に10~15人、ときには20人がやってくることもあった。普通30分~40分ずつで、かれらが早く出て行けばそれだけ多くの者を相手にしなければならなかった。食事のときやお風呂のときは、いつも武装した歩哨に監視され、「慰安婦」同士向かい合うことも話すことも禁じられていた。1握りの麦飯とたくあんがいつもの食事であった。着て行った服は刀でずたずたに引き裂かれ、浴衣のようなものを着せられたが、「奉仕」時間になるとそれさえはがされた。私は3年間一度も着替えができなかった。
証言者魯賢花
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ19-20
出典備考
備考 現在の地図の黒竜江省南部に牡丹江市がある。
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