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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報黒龍江省 牡丹江市 穆稜市
資料にある地域情報東北地方 牡丹江から約28km離れたソ満国境地帯にある穆稜
慰安所があった時期
記載内容私が17歳になった年の10月のある日、工場の監督が12人のいる女工部屋に入ってきて、私と金徳女、李春心を呼び出し事務所に連れ込んだ。そこには背が高くて体格もよく顔のきれいな娘たちが15人ほど集まっていた。監督は私たちに「明日はもっとよいところで働くようにしてやるから、みな出発の準備をしろ」と言った。翌日15人の娘たちは日本人に引率され光州駅で汽車に乗り、ソウルに行った。・・・翌朝私たちはまた汽車に乗せられ中国の牡丹江へ行った。そこでカーキ色のほろをかけた軍用トラックに乗せられたが、そこには軍刀を腰につるした日本軍護送兵がいた。私たちを連れて来た日本人は軍用車の日本軍将校に名簿と一緒に私たちを引き渡した。私たちは日本兵の監視の下に牡丹江から約28km離れたソ満国境地帯にある穆稜に向かった。途中でソウルの永登浦紡績工場から来た5人の娘たちをおろし、残りの15人を乗せた車は大きな木の茂った林を通って、鉄門のある3階建てレンガづくりの建物の前に止まった。・・・翌日、日本の軍医に検診を受けた。・・・その後、私たちはベニヤ板で仕切られた「慰安所」へ連れていかれ、1番のは最初の部屋をあてがわれた。2人がやっと横になれる狭い部屋に畳が敷いてあり、その上に毛布が1枚置いてあった。・・・その夜10時ごろ、軍刀を下げた将校が1人部屋に入ってきた。驚いた私は「あっ」と叫んで立ち上がった。かれはやにわに私を抱いた。・・・抵抗すると、なぐったり蹴ったりして私を押し倒し、獣欲を満たそうとした。私は体がこわばり、血を流した。将校は「汚い」と言って、また蹴った。・・・翌朝、軍医所の看護婦が来て私に注射を打った。その日もまた日本兵が入ってきた。・・・このように私は1年半も恥ずべき「従軍慰安婦」生活を強要された。そのときの傷痕は今も残っており、手首も思うように動かせない。私と一緒に連行された金徳女(英子)は日本兵に乳首を噛み切られて死んだ。また3号室にいた李春心(りみ子)は言うことを聞かないと、下腹部を足蹴にされて子宮が脱出し死んだ。
証言者郭金女
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ46-48
出典備考
備考 現在の地図の牡丹江市と鶏西市の中間付近に穆稜市がある。『満州帝国分省地図』及びテキサス大学図書館公開地図に穆稜の記載があるが、その位置は現在の地図の穆稜市ではなく、穆稜市のずっと南の穆稜鎮の位置である。現在の地図の穆稜市はこれらの旧地図では「八面通」と表記されている。要するに旧地図の八面通が穆稜市、穆稜街が穆稜鎮である。
テキサス大学図書館の公開地図は以下のとおり。
http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/manchuria/txu-oclc-6614368-nl52-12.jpg
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