記載内容 | 1937年3月、16歳の年に父が亡くなり、ついで9月には母にも死なれた。1人娘の私は同じ年に両親を失い保護者がいなくなったので、洋服店や病院、食堂などで雑役をして生きのびた。ソウル市黄金町の料理屋で女給をしていた1942年6月のある日、日本人記者かせいとから中国の東満洲地方で少女歌劇団を募集している、そこへ行けばお金がたくさん稼げると言われて、だまされているとも知らず、3人の娘と一緒に中国へ行くことにした。1人は李福姫と言って慶州生まれ、いま1人は金順恵でソウル生まれだった。あと1人の名前は思い出せない。・・・黒竜江省老黒山に着くと、すでに朝鮮女性が来ていた。当時、「慰安所」は兵営の外にあったが、正面に老黒山碧城館という看板がかけられ、日本兵だけが利用していた。「慰安所」の管理人は私服姿の日本人だった。板で仕切った15の部屋に1人ずつ入れられた。広さは2m×3m程度で、畳1枚が敷いてあるだけだった。到着後朝鮮語はいっさい禁止され、すべての女性に日本名がつけられた。私は市子と呼ばれるようになった。1日平均15~18人の日本軍人を相手にさせられた。午前9時~12時までと午後13時~19時までは兵卒が、20時から翌日の朝までは将校だった。拒むと、日本兵は「おまえはおれのものだ」と言って要求に応じるよう強要し、それでも応じないと裸にして蹴ったりなぐったりした。・・・食事は1食100グラムぐらいの粟飯で、おかずは食べるに堪えないスイカの皮だった。検診は1週に1回受け、病気だとわかるとどこかへ連れ去られた。1年の間に数人がいなくなり、他の娘が入れ替わった。こうした生活を3年間も強いられた。 |