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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報東北部 地名特定不可能
資料にある地域情報ソ満国境地帯
慰安所があった時期
記載内容ある日、患者につきそって病院のまわりを散歩していると、見知らぬ男が私に近寄ってきて、「ここで看病人なんかするよりは中国に行けば金儲けができる」と声をかけた。貧乏をしていたせいで24歳になるまで親孝行ができず、すまなく思っていた私は、お金が儲かるという言葉についだまされてしまった。お金を稼げたら孝行できると思ったのである。・・・平壌で1 泊し、翌日また汽車と車に乗って行き着いたのがソ満国境地帯だった。そこには農家風の3軒の建物があった。あとで知ったが、それらは「慰安所」だった。私がいた建物には廊下をはさんで両側に13ほどの部屋があった。そこには以前から6人の「従軍慰安婦」がいて、日本人相手に恥ずべき生活を強いられていた。私の隣室には慶子という娘がおり、その隣に2人の姉妹がいた。姉は25 歳、妹は21 歳ほどだった。廊下の右側の最初の部屋に入れられた私は、日本人にだまされ恐ろしいわなにかかったと知って、1日中不安と焦燥に駆られた。翌日の朝、1人の日本軍将校が部屋に入ってきて、ぶるぶる震えている私を蹴倒した。そして起き上がろうとすると、「こらっ」と怒鳴ってまた蹴ったり軍刀でなぐったりしたあと、むりやり裸にさせた。かれは抵抗する私を両手で押さえ情欲を満たした。こんなひとでなしがまたとあろうかと、声をあげて泣いていると、また1人の軍人が入ってきた。見ると外では軍人たちが並んで順番を待っていた。私は気を失ってその場に倒れてしまったので、その後何人に犯されたかわからない。夜、正気に返った私は悔しさと怒り、朝鮮の女が貞操を奪われたという恥ずかしさがこみあげ、そこを逃げ出した。しばらく走っていた私は、日本の警官に捕まり手をしばられて「慰安所」へ送り戻された。そして私はめちゃくちゃになぐられて、恥ずべき「慰安婦」生活を2年間強いられることになった。昼は平均15~20人の兵士を、夜は将校を相手にさせられた。・・・私は「慰安所」に連行された日から本名の代わりに間山美津子という日本名を押しつけられた。服も日本の羽織で、下着はいっさいくれなかった。そして半月に1度、近くの日本軍軍医所で衛生検査を受けた。
証言者沈青玉
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ64-65
出典備考
備考
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