記載内容 | 幼いとき父親に死なれた私は、物心がつくと稼ぎに出なければならなかった。生計をたてるため中国東北地方の牡丹江まで行った私は、23歳になる1942年に日本帝国主義侵略軍の「従軍慰安婦」として連行された。他の朝鮮女性と一緒に有蓋貨車、トラックに乗せられて到着したところは中国と旧ソ連の国境地帯のプチャ谷と呼ばれる山奥だった。鈴を吊して2重に張り巡らした鉄条網の中にある長いバラックがあった。それが「慰安所」だった。そこで私は春子という日本名で呼ばれ「慰安所」の右から1番目の部屋があてがわれた。地面に藁を敷き、隣室との仕切りは板壁で、中ほどに詰め藁を置いた馬小屋のような「部屋」であった。毎週1度順繰りに休む日本兵に夜も昼も休日もなしに奉仕するよう強要された。私が悲鳴をあげると、日本軍将校は「ここでは皇軍の要求に応じないと首を切ってしまう」と言った。日に30~35人も押し寄せ、夜は8~10人の将校に応じなければならなかった。監獄よりひどいところであった。鉄条網の中の日本軍が見張っている部屋に閉じ込められ、隣の部屋にも行けなかった。・・・私が逃げ出そうとしていることに気づいたかれらは、軍楽隊のシンバルを熱して腿にあて、火傷が治るとまたあてたりした。そのときの傷痕が今なお私の腿全体を覆っている。・・・日本軍国主義の敗亡後、九死に一生をえたが、「慰安所」の女性20人のうち5人しか生き残っていなかった。 |