記載内容 | 私が中国東北地方に駐屯したある日本軍部隊の「慰安所」に引かれて行ったのは、17歳の年の1944年8月初だった。私たちは到着すると写真を撮られ、日本の着物を着せられて、仕切りをした部屋に入れられた。戸口には写真と番号が貼られた。3番目の部屋に入れられた私は、名前のかわりに「3番」という番号で呼ばれた。「慰安所」へやってくるのは主に将校だった。かれらは戸口に貼られた写真を見て、気にいる部屋へ入った。わけもわからず厳しい監視を受けながら強制連行された私たちは、想像を越える辱めと苦しみを強いられた。かれらは私たちの髪をつかんで蹴ったり軍刀で突いたりして言いなりになれと強要した。・・・なかにはよっぱらって入ってきて、「おまえのサービスが悪いから上官に叱られた」と難くせをつけ、またある者は「朝鮮人のくせに、突っけんどんな奴だ。けしからん」と言って、なぐったり軍靴で踏みにじったりした。私もずいぶんなぐられたが、いくら痛くても泣なかった。するとかれらは「しぶといあまだ」と言って、またなぐるのだった。かれらがなぐるだけなぐって出て行くと、私はひとりで泣いた。痛くて泣いたのではない。あまりに悔しく腹立たしくて、ひとりでに涙がこぼれたのである。・・・私は死にたくなって、出された麦飯を食べようとしなかった。かれらはそれをむりやり食べさせ、食事が終わるまで歩哨がそばを離れなかった。それで私はどんなことがあってもこの巣窟から逃げ出そうと考え直し、食事をとることにした。そして国の解放2日前に他の女性たちと一緒に脱走した。かれらは敗戦の色が濃くなっていたことからか、私たちを追跡しなかった。 |