記載内容 | 14歳の年のある日、地主の家に日本人警官と憲兵隊長が来て「婦女供出だ」と言って、うむを言わさず私を引き立てようとした。私は「いやだ」と叫びながら反抗した。かれらは髪の毛をつかんで私を引きずりだし、5kmほど離れた民家に連行した。中には私と同じ年頃の娘が17人いた。私たちはトラックに乗せられて妙香山麓の香山駅に行き、そこで汽車に乗せられた。・・・翌朝、また汽車に乗って中国黒竜江省四平駅の2つ手前の駅で降りた。・・・汽車を降りてトラックに乗り換え、連れて行かれたところに明月館とかいう看板が掛かっている建物があった。そこには30人ほどの朝鮮の娘たちとほかに日本女性もいた。・・・この日から私は朝鮮の名前を奪われ、日本名で春山奉仙と呼ばれた。私のいた19号室の入口にはその日本名が貼り出されていた。幅1mほどに区切られた小部屋で、入口にはカーテンが掛かっていた。・・・1年半ほどたってから、部隊はチチハルに移動し、私たちも部隊に従って行った。この1年半の間に48人の朝鮮「慰安婦」中6人が死んだ。チチハルの「慰安所」は2階建てで、部屋が小さく仕切られていた。私が入った部屋は2階にあり、窓には鉄格子がはまっていた。ここでもそれまでと同じような生活が続いた。ここでも1人の娘が日本憲兵に殺された。酒に酔った憲兵は彼女に酒をむりやり飲ませようとして拒まれると、怒って軍刀で彼女の首をはねたのだった。私たちは身も心も傷だらけになった。その後、部隊が移動して私は牡丹江に連行された。そんななかで私は梅毒にかかった。出血するほどの重症だった。・・・19歳のとき、私は汽車の乗せられて北京へ連行された。当地の部隊は広野に駐屯しており、私はテントに入れられた。テントの中は小さく仕切られていて、娘が1人ずつ入れられた。そこでは衣類を身につけることが許されず裸ですごした。食事のときだけ娘たちは顔をあわせることができたし、そのわずかな時間だけ兵隊から離れることができた。 |