記載内容 | 1932年18歳で清州の製紙工場で勤めた。半年程経って、日本人と朝鮮人に、もっといい条件のソウルの製紙工場に行かないかと誘われた。拒絶したが、黄色いトラックがやって来て二人の男に無理やり車に乗せられた。途中、日本の軍用トラックに乗り換え、満州の奉天に着いた。部隊は山の下にあり、私たちは野原に居た。そこで日本人将校“よしもと”に引き渡された。慰安所では“あいちゃん”と呼ばれた。上級士官の“よしもと”は30代後半、肩に星三つの腕章をつけた階級の高い、優しい人だった。一部屋に1名、布団が一つ、羽織のようなものを着せられ、時には日本軍が中国商店から盗んで来た中国服なども着せられた。軍人達が来ない時は彼らの山のような衣類、下着・靴下などを洗濯した。“よしもと”が位の高い軍人だったので、下っ端の兵卒は自分に手を出せなかった。そこには自分を含め9人の慰安婦がいたが、彼女たちは暴力のうえ強かんされ料金も踏み倒されるという酷い有様だった。そういう慰安婦達は日に5〜6人の相手をしていた。1934年、21歳の時、陸軍病院で妊娠中絶手術をした。子供ばかりか子宮ごと摘出され、体がすっかり弱ってしまった。今考えると、哀れに思った“よしもと”が私を韓国に返してくれたようだ。 |