出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 内モンゴル自治区 フルンボイル市 海拉爾区 |
資料にある地域情報 | 中国蒙古のハイラル |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 8歳のときから他人の家で子守奉公をし、16歳の年のある日、おなかいっぱい食べられ、きれいな服も着せてくれるところへ行こうという言葉に騙されて、区長に連れられ晋州に行った。そこには私と同じ年頃の娘たちが10余人来ていた。そこで私たちはある日本人に引き渡された。数日後、日本人は私たちを釜山に連れて行き、船に乗せた。新潟で私たちはまた他の船に乗り換え、中国のある港に連れて行かれた。そこでは日本の警官が監視をし、兵隊があちこちに歩哨に立っていた。それを見て落とし穴にはまったと感じた。・・・日本軍は朝鮮女性を10余人ずつ1組にして毎日どこかに送り出した。私の組は16人で、石塚誠一という日本軍中尉の護送を受けた。汽車で何日も行ったところが中国内蒙古のハイラルで、日本軍の駐屯地だった。あとで知ったことだが、そこにはイルハ、ダイハチ、キンセイカンという、「慰安所」があった。イルハでは主に将校を、ダイハチとキンセイカンでは兵士を相手にしていた。私は「ダイハチ慰安所」で恥ずべき「慰安婦」生活を強要された。そこでは朝鮮服を日本の着物に着替えさせ、名前も日本名に替えられた。他の娘たちもひとみ、明子、ひかりなどの名を付けられ、お互いに日本名で呼ぶよう強いられた。「慰安所」では民間人の出入りが禁じられていた。・・・日本の将校は「慰安婦」を集合させ、「天皇陛下の命令だ」と言って、日に30~40人、日曜日には40~50人に応ずることを強要した。かれらは要求に応じないと容赦なくなぐったり蹴ったりし、火にあぶるようなことまでした。私も日本人に軍刀で顔や体を切られた。その傷跡は今もたくさん残っている。 |
証言者 | 金徳淳 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 踏みにじられた人生の絶叫 |
著者、公文書発信者など | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995 |
発行所 | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
ページ | 57-58 |
出典備考 | 注:証言に「キンセイカン」とあるが、同じハイラルに駐屯していたa-1421証言者は「金泉館」という慰安所があったと述べている。「キンセイカン」とは「金泉館」であろうか。 |
備考 |
『満州帝国分省地図』に海拉爾市がある。現在の地図の内モンゴル自治区の北部、ロシア国境に近い位置にあり、現在の地図では、フルンボイル市海拉爾区である。テキサス大学図書館公開地図で旧地図を見ることができる。次を参照のこと。 https://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/manchuria/txu-oclc-6614368-nm50-9.jpg |