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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報北京市
資料にある地域情報北京付近の日本軍兵営
慰安所があった時期1937年6月
記載内容1937年6月のある日、工場に李という刑事がやってきて、中国に行けば金儲けができ、いいところにお嫁にも行けるから幸福になれると言うので、私はだまされたとも知らず、李坦実という娘と一緒に新安州駅で20~30人の朝鮮女性と合流して有蓋貨車に貨物のように乗せられ、日本兵の護送を受けながら北京付近の日本軍兵営に連行された。あとで知ったが、李刑事は日本人に朝鮮女性を「従軍慰安婦」として売り飛ばしていた女衒だった。私は刑事にだまされたと知って涙に暮れた。それ以来私は日本軍の「従軍慰安婦」にされ、恥ずべき性奴隷生活をはじめた。「慰安所」は日本軍兵営内の一隅にあった。それは長屋で廊下の左右に2m×2.5mほどの部屋がいくつかあった。戸はベニヤ板製またはむしろを垂らしたもので、その上に部屋番号と「慰安婦」の名前が貼られていた。私は花子という日本名で呼ばれ、部屋の番号は7号だった。到着した日、「慰安所」の責任者は私たちを全員庭に集めて、「おまえたちは今日からわれわれ日本人の言う通りにしろ。さもないと殺してしまう」と言って部屋を割りあてた。その日の夜から私たちは、日に25~30人の「皇軍」将兵の相手を強要された。・・・隣の部屋へ行き来することさえ禁じられ、部屋を出入りするときは厳しい監視がついた。あまりもの屈辱と蔑視に堪えきれず、自殺をする者、逃げ出して捕まる者もいた。ある日、「皇軍」に悩まされて疲れはてた私は、怒りにまかせて逃げ出そうと思い、用便に行くふりをし監視兵の目を盗んで垣から抜け出し、懸命に逃げた。・・・身動きもできずに捕まった私は死ぬほどなぐられ、入院させられた。幸いにも親切な朝鮮人医師が担当だったので全治することができた。退院後私は「慰安所」の規定を破った罰だとして、それこそむごい仕置きを受けた。
証言者李宝芙
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ42-43
出典備考
備考 北京市は河北省のほぼ中心にある。
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