記載内容 | 私が18歳の1940年の秋のことである。しげいちという日本人が村に現れて、いい仕事があるという噂をたてたあと、職業を紹介してやるから一緒に行こうと誘い、ためらっている私をむりに釜山へ連れて行った。そこには日本の工場に行くという20歳前後の朝鮮娘数百人が集まっていた。私は彼女らと一緒に船に乗せられて日本の下関に行き、しばらくの間留まった。そのとき私は李賢淑という本名の代わりに文子という名前をつけられた。他の朝鮮女性にも日本名がつけられた。やがてまた船に乗せられ、数日航行してたどり着いたところは中国上海付近の村であった。日本人にだまされたと知って、家へ帰してくれと娘たちは泣きわめいた。すると、当分言うとおりにしていればいい職を斡旋してやるとだまされた。しかし私たちに与えられたのは職場ではなく、「従軍慰安婦」というつらい奴隷生活であった。・・・上海で「従軍慰安婦」の生活を強いられて2年ほどたったある朝方、突然荷物を持って集まれと言われて波止場へ行くと、どこから来たのか、1000人余りの朝鮮女性が集まっていた。やがて私たちは各種の大砲と戦車、日本軍を満載した大型貨物船に乗せられ、南方へ向かった。日本軍はかれらが占領した太平洋の島々に大勢の娘たちをおろした。私が連れて行かれたところはシンガポールの昭和通りであった。日本軍は私を含む19人の女性を、厳しい監視つきの4階建てのアパートに連れ込んだ。まわりには同じような建物が17棟あったが、全部「慰安所」であった。私は3階の部屋に入れられた。部屋にはコンクリートの床に2枚の毛布を敷いた木造のベッドが置いてあった。そのころ前方勤務についていた日本兵は週に1度交替で休暇をもらっていたが、毎日30~35人ずつ群れをなしてやってきた。夜も4~5人の将校を相手にしなければならなかった。 |