記載内容 | 17歳の年の12月のある日、病院に佐野修次という日本人が来て、看護婦17人を事務室に呼び入れた。かれは「近いうちに婦女供出がはじまる。それに取られたら生きて帰れない。だが、わしと一緒に行けば婦女供出もまぬがれ、お金もここよりはたくさん儲かる」と言って、私たちを沙里院駅へ連れて行った。私たちはそこで汽車に乗せられ、釜山へ連れて行かれた。釜山で20人の朝鮮女性が合流し、総勢37人になった。私たちは釜山港で連絡船に乗せられた。佐野は日本に向かう船の中で私たち1人ひとり強姦した。そのときになって初めて私たちは、行ってはならないところへ連れて行かれていることを知り、泣き叫んだ。しかし、もうどうしょうもなかった。日本に連行された私たちは、名古屋や沖縄で日本軍を相手に「慰安婦」生活を強いられ、1か月後、日本軍に船で中国の上海へ運ばれた。上海では1か月間、日本軍の駐屯地域に設けられたテント内で日本軍を相手に「性奉仕」をさせられた。その後、私たちは大連を経て徐州に移された。日本軍は人家のない奥地のテントに5人ずつ分宿させ、朝鮮服を日本の着物に着替えさせて、名前を日本名に改めるよう強要した。それ以来、私は富子という日本名で呼ばれながら、いつもは夕方から翌日の朝方まで日本軍の将校を相手にそして毎週土曜日には100人ほどの兵卒を相手におぞましい性奴隷生活を強いられた。 |