記載内容 | 「初めの頃はほとんどが高麗人(朝鮮人)で日本人が少しいましたが、1938年の末頃になるとこの女性たちは日本軍に(中国)内地に連れられていき、その後、東北や浦東の20歳前後の若い中国人女性が連れてこられました。慰安婦は週に2回、風呂に入ることができました。毎週月曜日には白衣を着た軍医ら4、5人がジープに乗ってやってきて、慰安婦が妊娠していないか、梅毒に感染していないか、りん病にかかっていないか検査をしていました。私は慰安婦が高い台に乗せられて検査されているのを見たことがあります。いつからか慰安所の主人は小島亀という日本人になりました。・・・兵隊たちは土、日曜日にトラックに乗ってやってきました。1台に3,40人が乗っていましたから、たいそうな人数だったと思います。さぞ辛かったのでしょう。ある慰安婦は『6人もの軍人の相手をして、痛くて死にそうだ』と訴えていました」・・・楊家宅の慰安所に中国人女性が増えてきた時期は、慰安所の経営にも変化が起きた時だった。慰安所の経営が民営になると、軍人だけではなく文官も慰安所を訪れるようになった。史さんは「彼らは北四川路の日本領事館の人間だったと思う」という。 |