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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 武漢市 礄口区
資料にある地域情報漢口 積慶里 三好楼
慰安所があった時期1943年3月
記載内容漢口の特殊慰安所は、江漢路と中山路の交叉点を南へ下った難民区の中の、積慶里の一廓にあった。中山路の大通りから横へ入りこんだところで、ここだけ高い煉瓦塀で外部と遮断されていた。後方兵站の慰安所だけに、前線あるいはそれに近い戦場の慰安所とはその趣を異にしている。漢口で積慶里というのは、特殊慰安所の別称であった。入口を入ると、右側に漢口警備隊の巡察詰所、業者の組合事務所(その二階は診療所・病室)があり左側には倉庫、炊事場、阿媽(アマ)苦力の宿舎がある。その奥に道の両側にそれぞれの屋号をもつ妓楼が並んでいる。・・・たとえば大阪清南楼(大阪)とか東成楼(神戸)とか羽田別荘(広島)とかのほか、清富士楼、戦捷楼、松本楼、勝己楼、松浦楼など9軒。ほかに朝鮮人の経営する三好楼、青山館、三成楼、泰平館、平和館、花乃屋、武漢楼など11軒の妓楼があった。ここには内地人慰安婦130名、朝鮮人慰安婦150名、計280名の内地朝鮮混合の妓たちがいた。
証言者山田清吉
証言者属性日本軍兵士・慰安係長
部隊名漢口第51兵站警備隊
資料タイトル武漢兵站
著者、公文書発信者など山田清吉
公文書宛先
発行日1978.12.25
発行所図書出版社
ページ76-77
出典備考注:著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」と、また60pに「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。漢口で慰安所をや料亭を担当したのは1943年3月以降のようだ。
備考 著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」、p60に「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。
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