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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 武漢市 礄口区
資料にある地域情報漢口 積慶里
慰安所があった時期1938年11月下旬
記載内容慰安所候補家屋の選定は、単独宿舎のそれと並行して行われたが、第一日目では決定にいたらなかった。第二日目、無人の未知の町を歩くにの少しは慣れた二人は、昨日よりはおちついて町並を観察することができた。・・・中山馬路を東に進むと、左側の商店の家並の間に、昨日見過ごした門を見つけた。門の上部のアーチには「積慶里」と横書きされ、約4メートル幅の入口は、鉄格子の扉と、その内側の鉄板製の扉とで二重に閉じられている。・・・彼らは漢口に到着すると、兵站司令部の指示を受け、積慶里に入り、11月中には30軒の慰安所と約300人の慰安婦が入居した。・・・慰安所は11月下旬から開業したが、その料金は、兵站と後方参謀と合議の上、つぎのように定められた。登楼時間30分で、兵は1円、下士官1円50銭、将校・軍属は1時間で3円。宿泊は将校、同待遇軍属のみで10円とした。兵用時間は9時開場、昼食時1時間休憩し午後6時まで。下士官は6時から8時まで。将校は8時から10時まで。10時以降は宿泊の規定である。慰安所開業とともに、兵隊たちが群れ集まってきた。正面と横門には憲兵と警備隊から派遣された歩哨が各1名立ち、整理にあたる。・・・漢口陥落後間もなくアンペラ張りの荒々しい野戦慰安所の姿で開業した積慶里は、昭和14年のなかばを過ぎると、慰安所業者も腰をすえたのか、一斉に改装に取りかかり、兵站司令部もこれを援助した。このころ、慰安係の吉川中尉、藤沢軍医は佐治後方参謀に率いられ、南京や上海に飛び、現地の慰安所を視察し、漢口慰安所の整備の参考にした。
証言者長沢健一
証言者属性日本軍兵士・漢口兵站司令部付き軍医
部隊名漢口兵站司令部
資料タイトル漢口慰安所
著者、公文書発信者など長沢健一
公文書宛先
発行日1983.7.20
発行所図書出版社
ページ40、41、 47、 50、 54、 60
出典備考注:兵站司令部によって、場所が積慶里と決定され、料金も決定された。40-41pに地図がある。54pに第6慰安所平和館の写真がある。
備考 pp40-41に地図あり。p54に第6慰安所平和館の写真あり。
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