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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 武漢市
資料にある地域情報漢口 銀翼
慰安所があった時期1943年3月
記載内容漢口兵站が施設としてもっていた将校料亭というのは、祇園、水月、銀翼と、中華料理専門の扶桑閣で、いずれも江漢路と中山路の交差点の近くかその周辺にあった。祇園、水月、銀翼には、それぞれ接待婦(芸妓ーといっても芸妓と娼婦の二枚鑑札)をおいてあってその数は24,5名。祇園がその半数以上をしめていた。扶桑閣は専門食堂であるため接待婦はおかず、昼間は下士官兵も利用できた。接待婦は、慰安婦とくらべると収入が少ないので希望者も少なく、その補充にはいつも苦労し、慰安所から富士子、秀弥など内地で芸妓の経験のあるものを説得して接待婦へ住み替えさせたものである。接待婦は慰安婦より格が上とされていたが、慰安婦という呼称にはどこか賤業的なニュアンスが感じられるので、接待婦甲、乙と改称するよう軍司令部へ具申したことがあったが賛同は得られなかった。・・・銀翼は、もと清風荘という将校料亭であったが、経営不振で、ろくな妓もいないせいか、ジリ貧状態になった。第5航空軍の隼部隊が専用の将校料亭を持ちたいというので、漢口にもう一軒増設したいと軍参謀部からいわれたことがあった。私は将校料亭の増設には反対し、どうしても新設したいなら、既設のものを買収し、改修した方がよかろうと意見具申をした。その結果、ジリ貧の清風荘を買収して、航空隊らしく、名前を銀翼と改めたが、主人が内地へ芸妓をつれに戻り、帰って来た時には下山琢磨中将の指揮する第5航空軍司令部は漢口を引き払って南京に集結してしまったあとで、なんとも締まらないことになった。
証言者山田清吉
証言者属性日本軍兵士・慰安係長
部隊名漢口第51兵站警備隊
資料タイトル武漢兵站
著者、公文書発信者など山田清吉
公文書宛先
発行日1978.12.25
発行所図書出版社
ページ139-140
出典備考注:著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」と、また60pに「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。漢口で慰安所をや料亭を担当したのは1943年3月以降のようだ。
備考 著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」、p60に「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。
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