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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 武漢市
資料にある地域情報武漢 漢口
慰安所があった時期
記載内容孝感から来た朴景道という50位の朴訥な朝鮮人が、武漢楼の権利を買いとって商売をはじめた。ところが前から店にいた妓たちが、どういうわけか新しい主人に反抗して全員ストライキをやって働こうとしない。そこで兵站ではこらしめのため憲兵隊に話し、3,4日留置してもらうことにした。しかしこの妓たちの結束は頑強で全員がハンストに入って飯も食わない。憲兵隊もこれには困ったらしく早く引きとってくれと言ってきたので兵站で貰いさげることにして行ってみた。・・・この妓たちは、結局本人たちの希望を入れて前線へ出してやることにした。朴はいちど朝鮮へ帰って新しい妓をつれて来たいというので、公務旅行の証明書を持たせて朝鮮へ帰してやった。明けて昭和19年の1月、南京から朴たち11名が乗船して漢口へ行くという電報が兵站に届いた。追いかけるようにして、今度は乗船した船が、九江付近で米空軍機の爆撃をうけて沈没し、全員行方不明という報せが入った。・・・暁部隊からも、正式に朴や慰安婦たち全員死亡の報せがはいった。乗船者名簿には、朴景道ほか10名としか書かれておらず、朴につれられて来た妓たちの氏名はまるでわからなかった。・・・朴の妻はよるべがないというので、慰安所の炊事場で働いてもらうことにした。朴の郷里に手紙を出させ、同行した少女たちの身元を調べるよう手配したが、返事もなく結局何もわからなかった。
証言者山田清吉
証言者属性日本軍兵士・慰安係長
部隊名漢口第51兵站警備隊
資料タイトル武漢兵站
著者、公文書発信者など山田清吉
公文書宛先
発行日1978.12.25
発行所図書出版社
ページ116-118
出典備考注:著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」と、また60pに「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。漢口で慰安所をや料亭を担当したのは1943年3月以降のようだ。
備考 著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」、p60に「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。
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