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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 天門市
資料にある地域情報大隊本部の位置
慰安所があった時期1939年
記載内容わたしはこの秋、道路の構築に熱中した。まずアスファルト道路わきの自分の大隊本部前の池を埋めて広場にし、自動車の溜り場に適するように整地して、そこを起点として各中隊の守備地点に自動車道をのばしたが、襄河の船着場の羅漢寺には第8中隊を配置して、その南方4キロの多宝湾の町に第7中隊を、そして船着場の北方4キロの林家店に第6中隊を、それから最精鋭と目される第5中隊を大隊予備隊として、わたしの虎の子にした。
そして大隊本部の位置に、中国女と朝鮮女の慰安所を2軒開店させ、第一線から交代でやってきて、セックスの解決に寄与させた。とくに多宝湾守備隊へ行く道には、途中に湿地があって、道路の新設に困難するだけでなく距離が非常に離れていて、敵襲の心配がもっとも大きく、1日も早く自動車の救援道路の完成が急がれたので、全通すればそのお祝いとして、慰安所を1軒プレゼントすると約束して、作業能力の向上をはかった。・・・
12月にはいって敵の行動は活発になった。自動車道路網はもう完成して、わたしは約束通り多宝湾へ連中が希望する朝鮮女の慰安婦をトラックで送った。・・・
大隊本部の部落と多宝湾の中間に公議場という部落があって、そこに師団の衛生隊1個中隊がいて、わたしの配下にはいっていた。
証言者菊地重規
証言者属性日本軍兵士
部隊名歩兵第65連隊
資料タイトル中国ビルマ戦記
著者、公文書発信者など菊地重規
公文書宛先
発行日1979.10.20
発行所図書出版社
ページ186-188
出典備考注:慰安所があった大隊本部の位置の地名が不明である。また証言に出て来る地名、襄河、多宝湾、羅漢寺の近くにこの大隊本部があったと思われる。地名不明のため、ここではこれらの行政区画上の上位の「天門市」でとった。186pに「漢口陥落直後の昨年12月30日」とあることから、この証言の時期は1939年と思われる。
備考 テキサス大学図書館公開の中国地図・孝感(シリーズL500、1954~)に「天門」がある。地図の中央左上付近「0-9」にある。現在の地図で同所は「天門市」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・孝感は次を参照のこと。
http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nh49-8.jpg
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