出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 湖北省 宜昌市 当陽市 |
資料にある地域情報 | 湖北省 宜昌市 当陽市 |
慰安所があった時期 | 1942年 |
記載内容 | 昭和17年(1942年)ごろ、日中戦争で、連隊本部が中国湖北省当陽にあった当時、私は下士官で、本部の用度係を命じられたことがあった。用度には郵便事務の仕事もあって、2ヵ月に1回くらいの内地からの便りが来た。特に慰問袋などの授受で各中隊から本部に出向してくる。兵隊の楽しみは、なんといっても便りであったと思う。連隊本部には慰安所があった。慰安婦が14,5人くらいいたと思う。事務連絡が終わると、慰安所行きになる。現地の酒を飲んで慰安所へ行った。当時1連隊は2千人くらいだったと思う。連隊本部を中心に10里(40キロ)四方の要地点に大隊本部があり、大隊本部を中心に各中隊があった。中隊は約2百人くらいいた。慰安所行きも簡単には出来なかった。慰安所行きの代金は、1回、2円50銭~3円50銭くらいだったと思う。兵隊の給料は上等兵で6円?前後だった。慰安所は午前中は兵隊、午後は下士官、17時ごろから将校となっていた。部隊によって変わる所もあったことと思うが、慰安婦は日曜日など大変であった。1日、20人も30人も相手にしなければならない。慰安所は昔の遊廓制度と同じで、親方夫婦がおり慰安婦をとりしきっていた。花子という娘が年期あけで祝いをするとかで、招待されたことがあった。花子は18歳で日本で遊郭に売られ、戦地に送られて来た子だった。借金の支払いがようやく済んだのが28歳で、売春生活を戦地で送り、体もぼろぼろ、想像を絶するものがあった。 |
証言者 | 藤井忠 |
証言者属性 | 日本軍兵士・下士官 |
部隊名 | 中国派遣部隊 |
資料タイトル | 女たちの太平洋戦争‹2›敵は日本人だった |
著者、公文書発信者など | 朝日新聞社 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1991.11.25 |
発行所 | 朝日新聞社 |
ページ | 144-145 |
出典備考 | 藤井忠「中国で会った慰安婦――金に縛られ心身ボロボロに」/本資料は単行本。朝日文庫版『女たちの太平洋戦争』1996.9.1では、177-179ページ |
備考 |
当陽は宜昌市の東方向にある。テキサス大学図書館公開の中国地図・宜昌(シリーズL500、1954~)に「当陽」がある。地図の上中央付近「7-1」にある。現在の地図で同所は「当陽市」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・宜昌は次を参照のこと。 https://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nh49-7.jpg |