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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報湖北省 地名特定不可能
資料にある地域情報向家湾
慰安所があった時期1941年
記載内容また、私達の部隊には、私達部隊専門の慰安所がありました。そこの主人がどういう人であたか忘れました。軍医は月に1、2度その慰安所の慰安婦の検梅をやらされました。花柳病検査ですが、主に淋毒性疾患でした。罹患している慰安婦は治るまで営業停止にする訳ですが、これが守られていたかどうか、軍医には、そこまでは眼がとどきませんでした。慰安所の主人によっては、軍医に賄賂を贈り、大目に見て貰う様依頼する者も居た様ですが、私には、別になんにもくれませんでした。慰安婦の中に、日本名を美智子といった姑娘が居た事を覚えています。その姑娘は扁平コンジロームといって、尿道、膣等に、扁平な疣の様な吹出物が一杯出来ていました。・・・毎日美智子を医務室にかよわせ、2、3ヵ月の駐留間、治療を施しました。・・・治療を終わってから、時には医務室で遊んでいく事もありましたし、時にはお茶等も飲んで、私や衛生兵と友達の様に談笑して帰って行きました。多分あれは向家湾であったと思います。作戦開始と共に移動して何十里も遠方の作戦地から、作戦終了と共に、よくこの同じ向家湾という一寒村にもどって来た事が2,3回あったと思います。
証言者堀口正夫
証言者属性日本軍兵士
部隊名
資料タイトル亜細亜の烽火-星の流れに- 第一部 上巻
著者、公文書発信者など堀口正夫
公文書宛先
発行日1987.7.31
発行所丸善出版サービスセンター
ページ35-42
出典備考注:32-33pに岳州の近くの大屋祝から漢口に出張する話があって、その後に、向家湾の慰安婦の話が続く。大屋祝の近くに向家湾があったと考えられるが不明。浙東作戦のため揚子江を下って南京に向かうことから、向家湾が南京より上流(例えば岳州や漢口)にあったのは間違いない。だが、向家湾は各地にあって、特定不可である。
備考
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