出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 江西省 九江市 永修県 |
資料にある地域情報 | 来辺路(永修裏山か) |
慰安所があった時期 | 1938年11月 |
記載内容 | 昭和13年11月2日 愈々前進する。5時起床。若干の残置品に監視者を残して約20キロ越山市付近で露営する。これから先、道路上は危険。破壊箇所が多く進めず、山沿いに段の田圃を横切ったりしながら永修裏山に陣する本部に数回駄馬で補給する。・・・この補給は毎回本部で一泊して来る。日帰りではとても出来ない行程だった。山間の地だけ途中甘藷畑もあり、帰途に芋掘りをして夕べの楽しみにした。来辺路に慰安所が出来たとか、何と言う事だろう。 |
証言者 | 砂塚熊太郎 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 人間らしく在りたい 父が綴った「日支事変・南方戦線」-九年間の記録 |
著者、公文書発信者など | 砂塚熊太郎 |
公文書宛先 | |
発行日 | 2006.7.5 |
発行所 | 合同出版 |
ページ | 97-98 |
出典備考 | 注:「約20キロ越山市付近で露営」とあるが、徳安から20キロ先の越山市ということだろうか。実際に現在の地図を見ると、徳安中心部から南方約20キロの地点に「越山村」がある。ここに宿営し、その先は困難と言いながらも「永修裏山」の本部に補給している。永修は永修県のことと考えてよいのではないだろうか。来辺路の位置は不明だが、永修県の、ある通りの名称だろうか。いずれにしろ、永修県は越山村を含む範囲であり、11月2日の宿営後どの程度進軍したかは不明だが、北から南に進軍しているのは間違いない。永修県の行政区画の範囲に来辺路はあると考えられる。 |
備考 |
テキサス大学図書館公開の中国地図・九江(シリーズL500、1954~)に「永修(建昌)」がある。九江の南、地図の下「7-1」にある。現在の地図で同所は「永修県」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・九江は次を参照のこと。 http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nh50-10.jpg |