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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報広東省 広州市 海殊区
資料にある地域情報広東の外港 黄埔
慰安所があった時期1942年頃
記載内容日本軍進駐以来ここに慰安所、飲食店などの娯楽施設が出来て、いわゆる日本人町と呼ばれて、通過部隊の休憩地として、いくらかの賑わいを呈している所なそうである。われわれは、まずその日本人町なるものを訪れることにした。・・・しばらく歩いていると、そこに大きな構えの建築が数棟軒を並べてどっしりと立ち並んでいるのが異様に眼を引いた。N君の説明で、これがかねがね耳にしていた「慰安所」なるものであることを知らされた。当初、慰安所と聞いて、なんのことかさっぱり見当がつかなかったのであるが、つまりはこれが外地における日本人遊郭であるということがほどなく了解されたわけである。・・・ビールの酔いに元気づけられて食堂を出た一行の足が、自然例の慰安所の方へ向いたのはけだし当然の結果というべきであろう。ガランとした建物の内はなにか不気味にしずまりかえっている。・・・はっとわれにかえってよく見ると、われわれの前には1人の女が立っていた。年のころは25,6、物すごく厚化粧で、そのやや小柄な肉体を包んだ華美な和服の下に、なんとなく頽廃的な不健康さが窺われる女性であった。・・・「あんた方、今日ここへ着いたんでしょう。私は北海道の生まれよ。でも、なにもかもが変わってしまったわ」。・・・上陸第一歩としての大陸、黄埔の印象は、あまり上品なものではなかった。・・・ともかく、上陸第一歩としての大陸、黄埔の印象は、あまり上品なものではなかったようである。
証言者大桶修義
証言者属性日本軍兵士
部隊名
資料タイトルビルマ日記
著者、公文書発信者など大桶修義
公文書宛先
発行日1973.6.15
発行所私家版(兵庫県神戸市)
ページ8-10
出典備考注:著者略歴に「昭和17年、応召。陸軍軍医見習士官として姫路陸軍病院よりビルマ方面に派遣される」とあり、ビルマに赴任する途中、広東の黄埔に上陸したのである。
備考 著者略歴に「昭和17年、応召。陸軍軍医見習士官として姫路陸軍病院よりビルマ方面に派遣される」とある。
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