出典種別 | その他 |
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現在の地域情報 | 広東省 珠海市 金湾区 三灶鎮 |
資料にある地域情報 | 三灶島(さんそうとう) |
慰安所があった時期 | 1938年12月 |
記載内容 | 三層島といふ弧島は雨季には細引縄ぐらゐ太い雨が土砂降りしてみるみるうちに雨の湖が出来るといひ、又ガラガラ蛇・青竹蛇などの毒蛇が少なからずゐるといふ、それは伝説だけでなく事実さうだった。そんな弧島へ建設の技術者と技工と人夫とで多くの日本人が渡って働いた。海軍将兵も又渡った。それらの人々の為めに酒保商人も渡ったが、慰安婦と称する売色の女も渡った。慰安婦は内地又は外地で売色をやってゐた女を集めたものだったので、島に到着すると海軍の軍医は就業より前に厳密な検黴をやることが励行されてゐた。同年12月上旬、新たに同島に到着した10数人のその種の女の検査にあたった若き軍医大尉は簡潔につくられた食堂で昼食を取った後、物思ふことあるらしく沈黙して独り考へ込むでゐた。・・・先ほど検査した売色の従事すべき10数人の女のうち1人処女がゐた、今は昼間であるから彼の女は客に接することがないが、夜に入れば疑ひもなく彼の女の純潔は失はれる。・・・慰安婦のことは主計長の所管である。主計長これに対処する適当なる考察はないであらうかと云ふことだった。主計長は矢野兼武君といふ若い主計大尉だった。 |
証言者 | 西村皎三(本名、矢野兼武) |
証言者属性 | 日本軍兵士・主計大尉 |
部隊名 | |
資料タイトル | 日本人はかうだったのだ |
著者、公文書発信者など | 長谷川伸 |
公文書宛先 | |
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出典備考 | 『ニューエイジ』3巻2号、1951.2、毎日新聞社 (『珊瑚礁』32号、2007年、矢野洋「矢野兼武と長谷川伸」をトラック島夏島会・機関誌に掲載。この文章の中に、長谷川の論文を転載。この転載論文からの引用) |
備考 |
香港50万分の1の地図に、澳門の南西に「三竃島」がある。当時は複数の島からなっていたが、現在は埋め立てにより陸地とつながっている。この中のある島には「三灶」と記した地名もある。現在の地図に名残としてか「三灶島」と記されているが、行政区画上の地名ではないようだ。行政区画上の地名は旧・三灶島中心部の「三灶鎮」である。/テキサス大学図書館公開の中国地図・CHUNG-SHAN(シリーズL500、1954~)に「三灶島」がある。島である。マカオ(MACAU)の南西、地図の下端中央付近である。現在の地図で同所は「珠海市金湾区三灶鎮」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・CHUNG-SHANは次を参照のこと。 http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nf49-8.jpg |