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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報広西チワン族自治区 桂林市 全州県
資料にある地域情報亭里村
慰安所があった時期1945年4月
記載内容亭里村にあった<椿>の第216連隊長室は、その一隅に4帖半の日本間をしつらえてあった。日本風の障子で仕切ってだ。連隊長が専属の女を抱いていたのは、その4帖半においてである。「戦死はしてもよいが、タタミの上で、も一度寝てからにしたい」とは兵士たちがよく口にした言葉である。兵士たちが故国にしかないと思いこんでいるタタミの部屋が、亭里村にある。我々はそのことを亭里村に移って初めて知ったのだが、滝口少佐はもとから知っていた。14日にすぐに、空き家となったばかりの亭里村の家々への引越しを命令した。・・・だが、雰囲気作りはもうできたと判断したのか、慰安所の開設を準備せよ、という口頭の命令が大村中尉に対して出た。中尉はその場で問い返した。第一に、正式の命令なのかどうか。正式の命令であるとすれば、典範令のうちの、どれの、どの条項に基づく命令なのか?・・・読んでくれと少尉から手渡されたのは、ガリ版で10数ページのパンフレットであり、<呂>集団司令部発行のものだったと記憶する。要点は、およそ次のようだった。(イ)兵站の慰安所施設が整っていた地域から、はるかに進撃してきたが、高級の将校が個別に女を囲い、満足している傾向がある。これは兵の不満を爆発させやすい。女は将兵が共同利用し、輪番制を確立するなど、利用率を高める工夫をすべきである。(ロ)その場合、性病が蔓延しやすい。対策の確立が肝要であり、毎日、その日の利用者を整列させ、軍医が事前検査する以外に良法はない。・・・一読して、「やはり、主計には関係ないことのようです」とパンフレットを長熊少尉にお返しした。
証言者阪本楠彦
証言者属性日本軍兵士
部隊名独立混成第88旅団
資料タイトル湘桂公路 一九四五年
著者、公文書発信者など阪本楠彦
公文書宛先
発行日1986.8.15
発行所築摩書房
ページ41、46-48
出典備考亭里村の位置。戦後、証言者は訪中し亭里村などを再訪している。217p以降にその再訪の過程が記されている。戦時中は、白沙(全県城から南下する鉄道が走っている、全州の西方)から河川(湘江)を渡り亭里村の脇を通ったのだが、戦後の訪中時には全県中心部から南下する道路が整備されていた。中国側の担当者に車で案内され、全県ー(南下)ー石塘ー(右折:西方へ。なお実際に石塘は存在する)ー三叉路(地名ではない。直進すると麻子渡だが、ここを右折)ー亭里村のルートで到着する。その時には亭里村ではなく「廠里」と呼ばれていた。問題はここから。グーグルマップで全県の「廠里」で検索すると、全県の北方の地域がヒットする。もちろん当時の亭里はここではない。グーグルマップや百度で亭里村を探すと見つからず。だが、似た地名の「享里」が全県の高速道路インターチェンジ付近に存在している。そして戦後の再訪のルートはまさにこの「享里」方面なのである。現在の「享里」が「亭里村」の誤りだろうか。しかし、阪本が訪中した80年代にはすでに村名は「廠里」となっていたはずなのだが。なお、慰安所開設についての結果は記載されていない。
備考 以下は推測だが、当時から「亭里村」と「享里」の両方があったのではないか。「亭里村」(つまり廠里)は何らかの理由(根拠はないが例えばインターチェンジ建設など)で全県北方に移転した。その結果、残っているのが「享里村」であるというもの。結局、結論は得られず、当時の「亭里村」は不明とし、行政区画上、上位の「全県」(現・全州県)でとった。界首10万分の1の地図に黄泥坵がある。その位置は「享里」の北東である。現在の地図にも同所に「黄泥丘」がある。阪本らは陶家村から湘江を渡り「享里」の側をとおり黄泥丘についたのであろうか。また界首10万分の1の地図に、石塘から西方に延びる道路上に「麻芝渡」がある。これが「麻子渡」であろうか。現在の地図に「麻市村」がある。現在の地図に「麻芝塘」もある。「麻市村」の北であり道路から外れる。この「麻市村」の少し前(東寄り)に三叉路があり、この三叉路を石塘から西進して右折すると不思議なことに「享里」に到るのである。
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