記載内容 | 次に若い兵の為に考えてやらねばならない事は慰安所である。上司よりも17年の末には話があり将兵よりも希望の申入があった。私は拉孟は最前線であり、敵に長射程砲があれば弾着距離内にあり、且つ陣地外には置く所がないので、最初は置かない方針で鎮安街までは許し、兵は鎮安街まで外出させたが、これも都合が悪く長く続かなかった。その中に拉孟に是非置く様に要望され、致し方なく場所を選び、記念碑高地と裏山との中間を切り開き、各部隊に割当て作業人員を出させて2軒を建築させた。作業員の努力は非常なもので、僅かの日数で拉孟で最も立派な建物が完成した。17年の暮も押し詰まった頃、半島人の慰安婦10名が軍の世話で到着した。18年の夏頃又内地人と半島人合せて10名が派遣された、最初の半島人10名は18年に龍陵の慰安婦と交代したが、これ等の慰安婦は19年6月後方との交通が遮断された為脱出する事が出来ず、拉孟の将兵と共に玉砕した。此等の女性は最初は慰安婦であったが拉孟が包囲されるに及び全く日本婦人と変り、兵の服を着用し炊さんに握り飯つくり、患者の看護等に骨身を惜しず働いて呉たが、気の毒なことであった鎮安街は一時置いたが永く続かず、龍陵には2軒最後まであった。 |