記載内容 | 1938年3月頃、私は日本帝国主義の「婦女供出」にとられた。黒い制服に星を2つ付け、サーベルを下げた日本人巡査が私と22歳の朝鮮の娘を平壌に連行した。そこには15人の朝鮮女性が連行されて来ていた。彼女たちは一緒に有蓋貨車やトラックに乗せられ、最初に連れていかれたところが中国の南京であった。そこには近水路「慰安所」があり、兵営から500m離れていた。空缶をつりさげた有刺鉄線を網のように張りめぐらした「慰安所」は、見るからにぞっとするところだった。「慰安所」の建物は3階立てレンガづくりで、広さ2m×2.5m位の各部屋にはベッドが一つ置かれていた。「慰安所」で私は歌丸という日本名で呼ばれ、2階の19号室を割りあてられた。各部屋の戸の上には「慰安婦」の名前と番号が貼られていた。日課は決まっていなかったが、夜が明けると1碗の飯とわずかなたくあんをあてがわれ、1週間に1度輪番制で休む日本兵を相手に屈辱的な行為をさせられた。1日平均日本兵30人を相手にしなければならなかった。・・・近水路「慰安所」に3年いたあと、私たちは日本憲兵隊の指示で2人の日本兵の監視のもと汽車で上海に行き、そこからビルマのラングーン近くにあるラシュ「慰安所」に連行された。私はこの「慰安所」で若春という日本名で呼ばれ、日本の歩兵と戦車兵の相手をさせられた。ラシュ「慰安所」で恥辱的な2年間を過ごしたあと、私たちは再び中緬国境地帯にある松山に連れて行かれた。そこは最前線地帯であった。毎日爆弾と迫撃砲弾の洗礼を受け、いつ死ぬかわからない状況のもとで、私たちは日に30~40人もの日本軍将兵の相手をさせられた。そこに連行された朝鮮女性は12人だった。「慰安所」は民家を改造したもので、全部で12の部屋があり、部屋の間はべニヤ板で仕切ってあった。 |