記載内容 | スマトラ島の最北端にコタラジヤという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時、日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が20名程、接客を強制されていました。みんな20才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、べニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。当時、日本の兵隊の月給は13円程度でしたが、「慰安所」の利用は1人30分で3円程でした。日本軍は交代で休日をとり、おしかけるので、1人の「慰安婦」が1日に20名位の接客を強制させられるというひどいものでした。「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、1人当たり20円程度の前借金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が10名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。 |