証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報アチェ州 パンダ・アチェ
資料にある地域情報コタラジヤ
慰安所があった時期
記載内容スマトラ島の最北端にコタラジヤという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時、日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が20名程、接客を強制されていました。みんな20才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、べニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。当時、日本の兵隊の月給は13円程度でしたが、「慰安所」の利用は1人30分で3円程でした。日本軍は交代で休日をとり、おしかけるので、1人の「慰安婦」が1日に20名位の接客を強制させられるというひどいものでした。「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、1人当たり20円程度の前借金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が10名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。
証言者須藤友三郎
証言者属性日本軍兵士
部隊名
資料タイトルこんな日々があった-戦争の記録-
著者、公文書発信者など三浦羌・北山武志編 
公文書宛先
発行日1995.5.5
発行所上越よい映画を観る会
ページ99-100
出典備考須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
備考
テキストのコピーはできません。