出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | アチェ州 西アチェ県 ムラボー |
資料にある地域情報 | メラボー |
慰安所があった時期 | 1939年 |
記載内容 | 戦地と女に関して、少し記して置きたいと思う。戦地で駐留になると、慰安所という所を準備し、慰安婦を配置して将兵の生理的処理の用に供することになっている。これはまた兵士達の住民への強姦防止も考慮してからでもある。料金も利用時間も公定で、朝9時から午後の5時までは兵、午後5時から7時までは下士官、午後7時から翌朝9時までは将校で、兵は50銭、下士官は1円50銭、将校はお泊りで10円、泊らないと2円というのが公定料金であった。日本軍の蘭印進攻で、蘭印軍は日本軍の捕虜となり、メラボー駐屯の蘭印軍も収容され、失職した女房連中が売春しているとの噂が伝わってきた。兵士が性病に感染してはいぬかと、希望者を募って慰安所設置の議が起こり、中村中尉が担当者になって華僑の通住者を経営者にあてた。私が性病の有無を検し、現地人による慰安所が成立した。・・・ 内地から軍政要員がだんだん送り込まれて来て、何かと整い始め、臨時に軍政官として出向いていた将校も、本来の職務に戻って来る頃になると、部隊専属の慰安婦達も送り込まれて来た。内地から着物を着た女達がたくさん来たぞとの噂も伝わってきたが、メラボーのような辺境にまでは来なかった。・・・大隊長がメラボーにいる連中はかわいそうだとのことで、巡視を兼ねて、慰安婦3人に係りの者を配して出張して来た。・・・大隊長は女達を残してコタラジャへ帰ったが、女達は3日の予定で滞在した。いわゆる”出張販売”とでも称すべきか。たとえ半島の出身者でも、着物を着た女達に会ったのは、石岐以来ほぼ1年振りであった。皆なごやかな気分になった。・・・ |
証言者 | 平林正 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 吾が戦記・我が家の歴史-平林正遺稿集 |
著者、公文書発信者など | 平林照子 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1996.10.11 |
発行所 | 私家版(松本市) |
ページ | 103 |
出典備考 | 前半は、メラボーについて、慰安所設置の議が起こり、現地人による慰安所を設置したことが記されている。後半は、そのうち内地から軍政要員が送り込まれて来たので、大隊長の指示でメラボーに慰安婦3名を出張させた、3日間の出張慰安所について記されている。慰安所があったのになぜか。これは推測だが、現地人の慰安婦だけでなく、兵士への配慮として、内地の慰安婦を出張させということなのであろう。証言の時期は、1939年と思われる。102-103pに、著者はメダンで、出たばかりの岩波新書『零の発見』を購入している。 |
備考 | 『大東亜南方圏地図帖』のスマトラ北部の西岸に「メウラポー」がある。現在の地図のムラボーMeulabohである。バンダ・アチェ市とメラボー間の直線距離は185キロほど。 |