記載内容 | 私は、軍のカメラマンであった。昭和17年8月、スマトラ島の高原カバンジャエという町に駐屯していた。その頃所属していた部隊は230連隊といった。・・・ジャワ攻略の殊勲は上聞に達し、戦闘部隊最高の名誉である感状授与。更にスマトラ島に転じ、ちょうど日本で言うと、軽井沢といったような、高原の、かつてオランダ人の別荘地帯に駐屯と決まった。・・・香港、ジャワの大作戦で苦労続きの歴戦の生残りの兵隊たちの顔の色も、めきめき色つやが良くなってきた。日本、朝鮮の連合軍の慰安所のお姫さんも数を増し、増援部隊のネシアのプロンプアン(娘)諸嬢もサービス万点、饅頭屋と汁粉屋と、ヤキトリ屋も近々開店するような噂だ。・・・その夜、どうにもくやしくてたまらず、兄弟のように仲の良かった木村軍医少佐の部屋へ、ブランデーを一杯ひっかけた勢いで這入って行き、今日の、山の上での一部始終を話したところ、木村さんも頭をかしげ、「女屋で(飲食店やピー屋のこと)何かまづい事があったわけでもなさそうだし、その外に何か思い当たることぁないかなあ。」とつぶやいていましたが、「明日の朝、様子を聞いて来てやる。」という事になって、その明日を迎えたのでした。・・・本部の書記の、大木曹長、小塩軍曹らが、徹夜で作ってくれたという帰還関係書類、公用梱包を受取り、その翌日、部隊幹部将兵、ちょっと離れた道の両側には使っていた中国人やインドネシアの苦力たち、顔馴染の食堂の女たち、慰安所のP(慰安婦)さんらが送ってくれました。 |