出典種別 | 兵士の回想録等
|
現在の地域情報 | 西スマトラ州 アガム県 ブキティンギ |
資料にある地域情報 | ブギ・チンギ「立花」 |
慰安所があった時期 | 1945年 |
記載内容 | ブキ・チンギは、もともとオランダ人などの避暑地だから、瀟洒な住宅がいくつもあった。・・・将校慰安所を兼ねた日本料理屋に行くと、畳敷きの部屋があって、日本髪の”芸妓”が出て来る。その若い妓からレコードを借りて来て、小唄の練習をするのが、流行した。・・・それでも、ブキ・チンギの日本人は、まだひどく、のんびりしいてた。インドネシアの人たちの心が離れたとも、あまり考えなかった。将校用慰安所兼料理屋には、「治作」という店と「立花」という店の2軒があった。「治作」というのは、もちろん、築地の店の名をとったものだろう。ここには、日本髪のかつらをつけ、長い裾のを引いた妓たちがいた。三味線の達者な老妓(といっても、まだ40にはならなかったろうが)もいて、若い連中は踊ったりする。ところで、ここには、司令部の将校だけが出入りするわけではない。ブキ・チンギ周辺の町にも、いくつかの部隊が駐屯しているし、さらに、軍政部の高等官の軍属、商社や銀行、新聞社の特派員など、いわゆる民間人も来る。圧倒的に女性が不足なのであった。たいていの妓たちが、部隊の違う将校を2人ぐらい、それに軍政官のお役人、商社の民間人と、4,5人の愛人を持っている。われわれ少尉などは、問題外の外みたいなものであった。 |
証言者 | 戸石泰一 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 消燈ラッパと兵隊 |
著者、公文書発信者など | 戸石泰一 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1976.7.1 |
発行所 | KKベストセラーズ |
ページ | 244、247、257-258 |
出典備考 | 注:259-260pに「昭和20年の3月、南方各地の抑留外国人、捕虜に対する国際赤十字を通して慰問品を送り届ける船が、内地から来る事になった。・・・この赤十字交換船なら安全なのである。皆が争って、これに乗りたがり、その許可を得た人は喜んだ。その中に朝鮮人慰安婦もいた。彼女たちは、中国各地を日本軍と共に強制的に行動させられ、マレーからシンガポール、そしてスマトラまでつれて来られたのである」とあり、証言の時期が1945年のことだとわかる。章タイトルも「敗戦に至る日々」である。 |
備考 |
現在の地図の西スマトラに、ブキティンギBukittinggiがある。
|