記載内容 | 私は前に述べたように昭和19年4月下旬、スマトラ義勇軍指導官要員として、内地の中部軍から派遣され、ブキチンギの軍司令部に着任した。・・・ブキチンギの集合教育が終わって、メダン、シボルガ、パダン、ラハトの各司令部に配属されることになったが、私は第4師団の防衛するパダンに配属されることがきまり、5月上旬に4人の少尉とともに鉄道でパダンに着き、海岸に近い師団司令部に申告した。・・・師団司令部のあるスマトラ第二の大都市パダンから10キロ奥地の山懐に小学校を借りて駐屯していたので、将校宿舎というものはなく、校舎の一室に寝台を持ち込んで、個室として使っていた。・・・近くに野営聯隊が移駐してきた直後に、慰安所もやってきたが、イスマエルは「これは日本軍のよい制度で、インドネシアの婦女子の貞操が守られている。シンガポールを追われて、本国に逃げ帰る英軍が暫くスマトラに居た間に、ずい分乱暴狼藉をして行ったから」と言っていた。・・・ブキチンギ出身の夫人デスさんとの結婚は、花々しい現役軍人のときであったが、フセイン入獄中は看護婦として一家を支え、主人の減刑、出獄の嘆願に奔走したそうである。デスさんとの話で、「あなたはスマトラ駐屯中、一度も女性に接しなかったそうですね」と言われた。こんなことが話題になるとは思わなかった。近くに皇軍用の慰安所があったが、私が見向きもしなかった事をフセインが覚えていたらしい。 |