記載内容 | パレンバンには、市内に3階建のビル2つを使って慰安所が開設されていた。・・・慰安婦にはグループがあって、それを監督掌握する芸者の置屋的なものがある。何々屋の誰々さんという具合に、兵隊に好まれそうな可愛い名前がついている。各部隊にはそれぞれ名札が下がっていて、大きな建物の場合は1階は何々屋、2階はどこと区分されている。パレンバンには慰安婦が7,80名はいたように記憶している。巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。行く度にコーヒーやケーキをご馳走になった。K子は年もまだ18とか19歳といっていた。小柄で丸顔の可愛らしい顔立ち、いかにも純情そうな女だった。Y子はK子より2つ3つ年上で、K子に比べてずっと大人っぽい。いうこともはきはきして、2階に居る20人程の女性のリーダー格で、よく仲間の面倒をみてやっていた。中肉中背奇麗な整った顔立ちの女だった。私はこの2人と、すっかり顔馴染みとなった。・・・私が1人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だから、真逆慰安婦なんかにさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かされた」 |